第68回石川県高等学校演劇合同発表会

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生徒講評


1 石川県立野々市明倫高等学校「OUT OF CONTROL」

この劇のテーマは、「核」とまり原爆の脅威である。核保有国の核ミサイル実験や福島原発の恐怖など、私たちにも身近にそして考えさせられるものであった。 劇全体の印象として、ところどころに見られる細かい動きが面白さを感じられた。ストップモーションや、大げさなポーズや身のこなしが面白かった。また、人型核爆弾たちがフォーメーションを思わせる動きが「人ならざるモノ」であることを感じさせ、その中でも一人一人のキャラクターに違いを持たせることで人格をもった「モノにあらざる存在」を意識させられた。

舞台装置、照明、音響にも工夫が施されており、物語の世界観に自然と引きこまれた。特に舞台装置に目を見張るものがあった。かなり大きな舞台を作ってあったが、造形は抽象的で色もグレーのモノトーンで統一されており、どのような世界なのか想像力を掻きたてられた。箱は椅子でもあり収納でもあった。平台の中を通り抜けて側面や上面からキャストが現れる演出が面白く、私たちもやってみたいと思った。照明では、ホリゾントの色合いが美しく、無機質な装置とのコントラストも鮮やかであった。特に最後に桃子たちが自分たちの意志で爆破するシーンで眩しい閃光が走る演出が印象的であった。音響については、銃を撃つアクションと音がぴったりと一致していた。サイレンの立体的な音も場の緊張感を高めるのに役立っていた。

タイトルの意味は「コントロール不能」である。誰の手にも負えない、つまり自分たち自身の意志のみが動力ということである。私たちも「親に言われたから」、「友達もしているから」ということではなく、これからは自分の意志で決定していくことも大切ではないかと考えさせられた。製作者である先生が核爆弾たちに対していつしか愛情のようなものを感じ、彼女たちの生存意義である「爆破」を回避させようという意志が働いていた場面についても、人間の心の複雑さを感じることができた。

石川県立野々市明倫高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


2 藤花学園尾山台高等学校「living・now」

物語はある病院の一室で巻き起こる。難病で入院する未来はお見舞いにきてくれた友達、高志と容子の前で痛々しいほどあっけらかんと病気について説明する。この物語のテーマは「人の死」「身近な人との関わり」だと感じた。未来は自分の病気に苦しみ、周りにあたってしまう、未来の「痛いよ…」というセリフには進む病気による身体の痛みと、心の痛みが含まれているといえる。主人公が高校生ということで、自分や自分の友達が病気になったらどうするだろうかと考えさせられた。まさに愛は地球を救うという番組のようだ。病室という限られた空間を目一杯使い、反応やアクションを大きくするなど豊かな身体表現で、見る人を飽きさせない工夫が見られた。

度々出てくるナゾナゾは未来や友達の関係を結ぶ要、同じ時間を共有するという絆の象徴のように見えた。ラストシーンでの未来からのナゾナゾでは、みんなが答えを考える中「ゆっくり、考えてね」と未来は微笑む。これは共有する時間がいつまでも続けばいいのに、という未来の願いだと感じた。未来からのナゾナゾの答えを答えると「真っ暗な深い深い闇」というのは苦しみや障害と向き合い、乗り切れれば希望や身近な人のありがたみが見えてくるというメッセージとして伝わってきた。

登場人物の複雑な気持ちのすれ違いは忠実に再現された病室と細やかな演技によって、よりリアルに表現されている。未来が1人ベッドの上でスマホと話しているシーンでは、未来の孤独感が浮き彫りになり、苦しくなった。高志に対して特にツンケンしていた未来が高志と手を握って死にたくないと訴える場面では、隠していた本当の未来の気持ちが見えてとても印象に残った。不自由な体と未来と未来を支える周りの人たちを見ていると最近起きた悲惨な事件が思い浮かんだ。タイムリーな事件だからこそ、この者が立ちを自分たちと遠く離れたものだとは思いたくない。闇の中にこそ人生に本当に必要なものがある。私たちは闇を恐れず向かいあい、目を凝らして大切なものを見つけるべきではないのか、そう思えることのできる素晴らしい作品だった。

藤花学園尾山台高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


3 石川県立金沢錦丘高等学校「青春泥だんご」

この劇のテーマは、タイトルでも分かるとおり、ズバリ「青春」である。

それも過去の泥だんご事件から始まる。友達が傷つけられた仕返しに泥だんごを投げつけるなんて、なんてバカなのだろうと思う。けれどもそれを一生懸命やっていることがかっこよく思えてくる。一生懸命バカやって、等身大の悩みと「青春」に正面から向き合う彼らを見て、「青春とは何か」を考えさせられたし、単純に楽しそうな彼らを見て「青春っていいな」とも思った。本当に単純だけれども、単純にいいなと思えるところに青春の良さがあるのではないか。

劇を見ていて一番心に残ったのは「今しかできないことをやろう」という言葉であった。その言葉は、私たちのようなまさに今青春を送っている人々に「今本当にやりたいことをやっていますか?」大人になれば今よりシバリが増える。だからやりたい事は今のうちにやってしまっていいんですよ。」とメッセージを送っているように思えた。泥だんご事件だってそうだ。社会人になって、私的なことを理由に同僚に泥だんごを投げつけたら誰だって強い批判を受けるし、非道徳的だと何かしらの罰を受けるだろう。ということは、それは青春のうちにしかできないことだったということ。私は「今やるからこそ意味のあること」と解釈した。社会人になって罰を受けるようなことであろうとも、青春のうちにやってしまえば後で笑い話になるし、自分自身の中でも良い思い出になる。今大人である方々にも学生時代そういうバカをやった思い出はあると思う。

「今しかできないこと」というのは後々、何かしらの形になって自分の中に残る。過去と未来が繋がっているように、そこで起きたことが後になって活きることもあるだろう。「やらない後悔よりやる後悔」とあるようにやれば確実に自分の中に残る。最後にカプセルに泥だんごを詰めて埋めるシーン、それは、「青春を未来につなげたい」という思いがあったのではないか。

彼らの青春は私たちに「やりたいことをやっていい。今やった方がいい。」と語りかけてくれたと思う。

泥だんご事件が起点であり青春の1ページ、泥だんごのように、汚い部分もあるけれど、一生懸命やればかっこいいし美しい。そして楽しい。『青春泥だんご』、今青春を生きる私たちに勇気と元気を与えてくれたと思う。今だからこそ青春は輝く。

石川県立金沢錦丘高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


4 石川県立小松高等学校「フラン」

この作品のテーマは「人間が持つ黒い部分を意識すること」「汚いものを偽って綺麗にみせる」といったものではないかと感じた。母と理恵、その妹のフランが星を見ているシーンから始まる。すると流れ星が現れ、理恵が隣のかなこちゃんと流れ星を見たいと言い出し、フランは理恵についていく、しかし、そこで姉妹喧嘩が始まってしまう。理恵がフランを突き飛ばすと傍にいたかなこが巻き込まれ、かなこは倒れて動かなくなってしまう。姉妹たちの母親は、「黙っておくのよ。」と指示をし、フランは「悪い子」とされてゴミ箱に入れられ、本当のことを言いたくても言えない状態になってしまう。

人間には黒く汚い部分というものがある。この作品の中ではフランが人を殺してしまったことである。そして、人間はその汚いものを偽ったり隠したりする。作品に出てきたゴミ箱と蓋がその役割を果たしていた。人間は汚いことからは目を背けたがり、綺麗なものだけを見たがる。しかし綺麗すぎるものかたも目を背けたがる生き物である。そのような人間の感情の矛盾がうまく表現されていた。母親がフランをゴミ箱に閉じ込めたのも、フランこそ「汚いもの」を明らかにしようとする純粋な「綺麗すぎるもの」であったからではないかと考えられる。しかし、蓋をしてもゴミ箱の中のものは残り続ける。いくら汚いものに蓋をして「見えないもの」にしたとしても真実はずっとそばに居続けることの暗示と受け取った。

また、「蓋は重くて、あかないもの」という母親の台詞があったが、重くてなかなかあかないものとは、自分を綺麗に見せるためについた嘘への罪悪感や良心の呵責と捉えることができる。己を綺麗に見せるために偽る部分と、本当のことに対する罪悪感や良心の呵責に挟まれて、どのような生き方をしていけば良いかを考えさせられた。キラキラ星のテーマが、純粋で無邪気なものだけではなく、私たちに何かを問いつめてくるものとして深く心に残った。

石川県立小松高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


6 石川県立小松明峰高等学校「Traum(トラオム)」

私たち高校生は悩みを多く抱えている。友達関係、家族関係、そして自分について。この作品の主人公「未来」もそのうちの一人だった。学校生活でのいじめや家庭での孤独感、なにより大切な友達とのすれ違いによって生まれた壁。毎日生きていることがつらいと思っていた。

未来が学校の教室で目を覚ました時から物語は始まる。クラスメイトの明日香、翼、莉沙が入ってきて言葉の暴力で彼女を傷つける。家では母親のよう子から説教をうけ、兄の翔と比較される。場面は変わり、病室ではよう子と翔が未来のことを心配していた。未来は事故にあい、眠ったままらしい。先生からそれを聞いた明日香は心配するがお見舞いに行けずにいた。明日香と未来は幼稚園の頃からの付き合いらしい。場面は戻り、未来は明日香からもらった大事なお守りがないことに気付き教室に探しに来たが見つからずにいた。すると翼と莉沙が来て、未来に絡む。未来は2人がお守りを持っていると思い、返してと叫んだ。それにむかついた莉沙が手を上げようとしたとき、謎の少年が指を鳴らした。すると、2人の動きが止まってしまった。謎の少年、ムートは未来の心の中の勇気だという。そして、この世界はムートが作り出したものだというのだ。そして、現実で起こっている現状と家族の愛情を最初は死にたいと願っていた彼女も自分を変えたい、変わりたいと思うようになった。強く願うことで現実に戻れた彼女は、明日香と向き合い、もう一度友達になりたいと手を差し出した。ムートをもう頼らずに自分を変えるための一歩を踏み出したのだ。

舞台装置は斬新で新しく面白かった。場所、場面を3つに区切るために舞台、平台の上の左側、右側に分かれていた。照明も使われている場所のスポットをそれぞれつけたり、消したりすることで余計なところに目がいかず、集中してみることができた。舞台を平台で上下に分けることによって、上の舞台が未来の夢、下が現実と分けることができていた。暗転の間の音やドアの開閉音、ヘッドフォンに合わせた音遣いはきれいに仕上がっていてとても聞きやすかった。

身近な高校生の人間関係という舞台をやることでとても親近感を持てた。題名や登場人物がドイツ語だというのも面白かった。一つ一つの演技が丁寧に作られていて、未来と明日香は前のように友達になって莉沙と翼も仲良くなって楽しい高校生活を送ってもらいたいな、という温かい気持ちになった。観客に勇気と感動を与えるすばらしい作品であり、何より人々を笑顔にさせるものがあった。

石川県立小松明峰高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


7 金沢大学人間社会学域学校教育類附属高等学校「はじめてのおつかい」

タイトルである「はじめてのおつかい」には、二つの意味が込められているのではないかと感じた。一つは天使となった小曽絡が、はじめて幽霊であるビリノの願いをかなえてあの世へと導く任務を果たすという意味での「はじめてのおつかい」。そしてもう一つは、自殺しようとしている伊達のもとに、天使・幽霊というこの世にあらざるものが遣わされることで、天使・幽霊と初めて遭遇するという意味での「はじめてのおつかい」。観劇し終わった後は、どことなく爽やかな気持ちになることができた。

まず、舞台装置は非常にシンプルであり、なおかつ登場人物もシンプルだった。なにより、天使も幽霊も人間も一見すると誰がどの役割なのかが分からないようになっていた。あえて役に合わせた小道具を使わないことにより、三人の掛け合いの面白さが自然に入ってきた。天使も幽霊も人間も関係ない、いるのは生きている人間と、この世に未練が残っている元人間と、あの世で仕事を始めた元人間である。三者三様の立場から「生きること」「命」を解釈し、語り合うことで私たち自身も「生きていくことの辛さ」「生きていくことで生まれる希望」について改めて考えることができた。三人のキャラクターもそれぞれ個性的であり、どこかクールな天使と、明るくひょうきんでどこかズレているお人よしの幽霊といかにも生真面目でどこかオドオドしているように見える人間の取り合わせも飽きることがなく、次から次へと進むテンポの速い会話も飽きることなく楽しめた。照明や音響は凝っており、特に人物の動きと効果音のタイミングが絶妙であった。スポットライトが当たる場面も印象的であった。

この作品のテーマはずばり「生きることの大切さ」ではないかと感じた。劇中は極力シリアスな部分が感じられないようにあえて明るくテンポ良く進めている場面が多かったが、死んでしまっている二人が、これから死のうとしている一人を結果的に「生きていくのも悪くない」と思わせ、道を分かつことになる。死んでいる二人にとっても、伊達が生きていくことは自分たちの希望にもつながるはずである。そして、私たち自身も何か辛いことがあっても、どこか明るく笑いとばす部分があれば、それが救いになる勇気をもらった。

金沢大学人間社会学域学校教育類附属高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


8 石川県立金沢辰巳丘高等学校「人生超幸福論」

まず、この劇を見て感じたのは、人生をやり直すという壮大なテーマ、そして高校生たちの青春である。主人公の幸也は幼なじみである美咲に告白をするために、人生をやり直したいと願う。するとそこへ、綺羅と名乗る謎の人物が現れ、本当に彼の人生を小学生からやり直させてしまう。しかし人生がリセットされたはいいものの、その後美咲は転校してしまい、結局幸也はまた美咲に告白できないまま終わってしまう。このことから人生とは、たとえ何度やり直そうとしたところで、自分自身で人生を変えようと思わないかぎり、変わらないのであるというメッセージを受け取った。このあと幸也は美咲の居場所を突き止めようと仲間たちと探す。自分の人生は自分が主人公である。しかし、そこにはそんな人生を輝かせてくれる頼もしい仲間がいて、その仲間たち一人一人にも、彼ら自身が主役の人生があるのだと気づかされた。

技術面については、舞台のみならず客席や花道を使った演出は、観る側に驚きを与え、なおかつ身近に感じさせてくれダイナミックであった。登場人物の心情や性格も顕著に読みとることができ、場面転換もスムーズにできていた。キャラクターも個性豊かであり、それぞれが思いを抱えながらも人間関係のバランスを保っているところが、高校生の「リアルさ」を感じた。

この脚本では、幸也が美咲に告白する場面は描かれていない。しかし、おそらく幸也はこのあと、美咲に自分の思いを伝えたのだろう。自分の人生とまっすぐに向き合い、人生を変える強い決心をした彼には思いを伝える勇気がきっとあるはずだ。自分なりの幸せを見つけ出す「人生超幸福論」という言葉に強い希望を感じた。そして最後に綺羅が語った「人生超幸福論、第一項」という結びの言葉から、第二項、第三項と続きがあることを予感させた。私たちは何気なく人生の選択をしているが、もしかたら違う選択をした場合の人生の可能性が「人生は一つではない」ということに繋がるのではないかと感じた。人生をやり直すというファンタジーの中に人間が直面する現実的な問題が含まれた深い演目であった。

石川県立辰巳丘高等学校の皆さん、お疲れさまでした。


9 稲置学園星稜高等学校「小さな希望のうた」

まず、この作品を観劇して感じたことは、細部にまで行きわたっている心配りである。難病とたたかっている天使の歌声の持ち主である牧野さんの車いすの扱い方や、足を怪我している山本くんの歩き方、プロデューサーがヒールをカツカツ音を立てる独特の歩き方など、細かいところにまで本物に見えるようにとの練習の跡が見られた。また、牧野さんや新人アイドル、女子高生たちの歌やダンスがとても上手で、自然と作品の中に引き込まれていった。さらに目を奪われたのは、小道具、大道具、舞台装置の見事さである。病院の談話室らしい雰囲気を出すような貼り紙や、お金を入れてボタンを押すごとにいくつもジュースが出てくる自動販売機、テレビ、テレビクルーのカメラなど、細かい工夫もあり楽しめた。

私たちがこの作品のテーマだと考えたのは、「人との出会いとつながり」である。テレビを通して出演している人同士のつながり、そして、番組を創る側の人と、番組の視聴者とのつながりを感じることができた。また、題名にある「小さな希望」とは、沢山の登場人物それぞれの希望なのではないかと考えた。印象的だったのは生中継の本番の場面だ。女子高生の3人と山本くんが、必死に取材の邪魔をしているのがコミカルで、たくさん笑わされた。この場面で女子高生たちがアイドルを差し置いてダンスを披露するが、ドタバタが楽しく、そしてダンスも上手で引きこまれた。また、ADが示すカンペもヒートアップしていくのも面白かった。セリフがない場面でも、それぞれの細かい演技が光っており、会場は終始笑いに包まれていた。

全体を通して、セリフやギャグのテンポが良く、演者たち自身がとても楽しんでいるのが伝わってきて観ている方も一体となって楽しめた。しかも、笑いの中に人と人との出会い、つながりについて考えさせられる作品だった。また、流行のネタでも笑いを取っていた。それぞれの場所で登場人物の個性が際立ち、内容が濃くとても楽しい作品だった。

稲置学園星稜高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


10 石川県立金沢桜丘高等学校「アレから、逃げよ。」

この作品は題名にある通りに、「アレ」から逃げた者たちの物語であった。「アレ」というのは現実であり、自分の置かれている状況でもあったと感じた。

この作品の登場した圭祐、桃子。ゆりなの三人は家族から逃げて公民館へとやってきた。そこの公民館の管理人がサンタさんへ何かお願い事をしてみないかと提案した。そこで彼らは幸せな家族が欲しいと願い出す。そうして三人は幸せな家族を演じる言わば「家族ごっこ」を始める。最初こそ楽しそうに幸せな家族を演じることができていたが、徐々におかしくなってゆく。やがて自分たちが何者であるかも分からなくなってしまう。そして三人の耳に入ってきたのは自分たち三人が土石流によって死んだというニュースであった。彼らは雨から避難しに公民館へとやって来た。しかし彼らの死体は各々の自宅で見つかっている。彼らは何らか逃げたのか。彼らは現実から逃げるために逃げなかった。これを見て現実から逃げても後悔が残るだけということ、どんな理想を描いていても目の前の現実は変わらないということが分かった。

今回の物語におけるカギとしては管理人と公民館の二つがある。管理人は何者なのかと考えるときには同時に公民館について考察する必要がある。公民館というのは死んだ者がたどり着く場所とも捉えることができる。そして、そんな者たちが理想を思い描く場所であるとも言える。そのように考えると管理人の役割というのはそうして集まった者たちに現実を見せる役割があるのではないかと考える。

私が好きなシーンは、家の壁がどんどんと壊れていくシーンだ。あの表現によって偽りの家族の偽りの絆が壊れていくのがよく分かる。その他細かな点としてはテレビが光ることやご飯を食べるシーンが細かくかつ丁寧に表現されていた。そして、彼らの動きを見ていて最も驚いたのが、早送りのシーンの動きだ。ビデオの早送りのような音に合わせて役者たちの動きも合わせて早くなるのが印象的だった。動きのあるスピードはかなり上がっているのに、動きの丁寧さは変わらない事を見て桜丘高校の練習の多さを分からせてくれた。劇中で女子高生ゆりなが家族に抱いている不満が自分によくある経験でその不満が上手に表現されていた。

石川県立金沢桜丘高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


11 石川県立金沢商業高等学校「夏芙蓉」

この作品は、私たちに変わらない友情の大切さに気付かせてくれる物語である。千鶴、舞子、由利、サエの4人の「人間」がこちらの心の「内側」に入り込んできて時間を共有しているように思えた。

印象的だったところは、「事故にあった」というセリフの後にでた車のブレーキ音で、他愛のない女子高生の会話から雰囲気が一変して、重い、暗い雰囲気となった場面だ。始めは、千鶴が「待って、行かないで」などと舞子、由利、サエが帰るのを止めていることから千鶴が幽霊ではないのかと推測される部分があったが、事実は事故にあって亡くなったのは3人の方であったという展開が予想外で驚かされた。しかし、3人の衣裳がパジャマなどの学校に着てくるにはあまりにも場違いなものであったことから、ネタばれにつながるのではないかという意見も出てきた。

劇中で4人が椅子に座り、高校生活の思い出を語る場面では、それぞれの個性を表すポーズが個性を引き立てていた。タイトルにもなっている「夏芙蓉」とは、現実には存在しない花であるが、舞台上の設定では白くて大輪の花で、春に咲いて夏に枯れ、夜に花咲き、昼間は閉じているという花である。この花は、実際はすでに死んでしまっている舞子、由利、サエをなぞらえているのではなかろうか。3人はこの世にはもう存在していないからこそ、夜にしか現れることができない。しかも、劇中でも、夏芙蓉は校舎の工事のために撤去され、今は存在していない。千鶴は3人が死んでいることを知っているため、4人で過ごした証として、「夏芙蓉」の思い出を共に語りたいと思い、夜中の学校で逢うことにしたのではないか。

ラストシーンでは、朝、先生が見守る中、千鶴が3人の机にそれぞれ卒業証書を置いていく。先生が去った後、舞子が千鶴の前に現れ、卒業証書を手にとって何か言葉を発するが、その言葉は千鶴にも観客にも伝わらない。その後「ちー、アタシたち一緒に卒業した!」と発し終幕する。伝わらない言葉は、舞子は死の世界の住人になろうとしている実感を想像させ、「卒業」という言葉が別れの言葉の代わりとなることが伝わった。

石川県立金沢商業高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


12 石川県立七尾東雲高等学校「魔術」

この劇は、一見男子高校生三人によるコメディーとして仕上がっているように見えるが、実際その背景にはこの作品のテーマが隠されているように思えた。作品のタイトルともなっている『魔術』は芥川龍之介の短編小説であり、劇中で明石、須磨、北山が劇中劇で演じていた『夢十夜-第三夜-』は、夏目漱石の短編小説がモチーフになっている。何気ない日常の学園生活のどこまでが現実でどこからが夢なのか、人間のどこまでを信じてどこからが疑わしいのか、観ている私たちも惑わされてしまった。軽妙な面白さの中に潜む、奥深い部分での人間の弱さや欲が描かれていたように感じた。たとえ無邪気な関係の中にも欲に溺れ、周りが見えなくなる時がある恐ろしさを実感した。

まず幕が上がった瞬間から、独特な舞台装置に引き込まれた。田んぼか森の中を示すような、暗い色の不思議な長方形のパネルがいくつも舞台上に立てられていた。不思議な舞台装置の効果か、「夢十夜」の劇中劇では、照明の工夫もあってより奇妙な空間が作り上げられていた。三人の高校生、明石、須磨、北山と物語の鍵を握っている人物の一人である女子生徒若菜による学校祭に向けての出し物のコントから始まる。ほのぼのとした男子生徒の演技が楽しく笑ってしまう場面もあった。学務員の脇本の登場から、突如学園生活の一場面が夢十夜の始まりに自然に混ざり合ってしまう。脇本が演目として提案した「夢十夜」であるが、自然に劇中劇に入っていく様子が見事だった。あたかも夢十夜の森の中の田んぼの畔にいるような感覚になり、独創的な世界観に驚かされた。物語が終わった後には、まるで頭の中のイメージがつい先ほどまで現実化していたような気持ちになった。学校内のほのぼのとした場面と小説の不思議な世界観をごく自然に絡ませることで、飽きることなく物語を楽しむことができた。

「魔術」が演じられた場面では、人間の欲がどれほど恐ろしいかを考えさせられた。魔術が使える幻想の中、学校祭で一位を取ることができた明石、須磨、北山らは賞金として100万円を獲得した。そして100万円を若菜が持っていると知った明石は若菜によこすようにしつこくすがりつく場面が、幻想から現実に戻るきっかけになっていた。脇本と若菜が「人間はみんな同じなのよ。」などといった意味深な会話を交わす。そのシーンから、何らかの続きがあるように思えた。また、彼らが人間ならざるもののような推測も生まれた。

石川県立七尾東雲高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


13 北陸学院高等学校「風の詩が聞こえる」

「風の詩が聞こえる」は、ある高校のヘッポコ演劇部に、ある日風のように現れた男(風の又三郎)が、2か月間という短い間に部員たちの意識を変えていくとう物語である。第一印象としては、演劇部を舞台としたコメディーのように感じた。それと同時に舞台上で繰り広げられる日常の練習風景は、私たち演劇部員にとって「あるある」「そんなこと取り入れるんだ」「自分たちもやってみたい」といったものも多く、非常に身近に感じるものであった。また、演劇部の活動がよく分からない人が見たとしても、「演劇部はこのような活動をするんだ」と知ってもらえる機会ではないかと感じた。

舞台については、中割幕を引いた中での前面を使った動きが、観客との近さを意識しているように思われた。最初に部長が悩みを抱えているように、一人一人の部員を紹介していく中で、まるで観客も部員の一人になったような気持ちにさせられた。少し締まりのない中にも、ふんわりしたバランスが保たれた部活動の様子を受け取ることができた。その中に突如現れた転校生が一気にバランスを崩していく。時には反発しながらも転校生の提案するメニューを受け入れて、少しずつ部員の意識が変化していく部分が丁寧に描かれていた。時折見られる又三郎と顧問の先生の意味ありげなシーンが、次の展開がどうなっていくのだろうかとドキドキさせられた。

彼らが一体となった活動が公演のための合宿だった。ワイワイガヤガヤは相変わらずであるが、明らかに一つのまとまりとして又三郎を受け入れ、公演を良いものにしたいという目的が見られた。エチュードやダンスなどが一体感を表していた。照明や大きな舞台装置の登場などが場を盛り上げた。少し頼りない顧問の先生も部員と一緒になっていたように感じた。いつしか見ている自分たちもこんな部活動をしてみたいと思った。

いよいよ又三郎の転校が明かされたとき、部員たちの落胆が手に取るように分かった。それと同時に、今度は又三郎がいなくても自分たち自身の手で良いものを作りあげていく決意も感じられた。この舞台を通して、今私たち自身が関わっている部活動の在り方を強く考え直す機会になった。たとえ又三郎が現れなくても、私たちは何かを変えていきたいと思った。

北陸学院高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


14 石川県立工業高等学校「それでも私はおぼえてる」

この作品は、学校の七不思議をモチーフにした奇妙で怖くて愉快な物語である。舞台はきさらぎ駅に佇む少女・瑠璃の前で二宮金次郎像が怪奇現象について解説するところから始まった。幕開けかた、舞台の真ん中に瑠璃が1人という状況が彼女の存在感を際立たせていた。また、客席からは彼女の表情が見えないという演出が不気味で、バックの夕焼けがさらに異様な雰囲気を作り出していた。教室の場面では、風香、菖蒲、エリカの3人が、オカルト本を読んでいる瑠璃を仲間として引き入れ、学校の七不思議を探しに行くところから物語が動き出した。風香たちのテンポの良さがコミカルで軽妙さを作り上げていた。学校の七不思議として登場する異界の者たちはそれぞれ個性的で、既成概念を覆されることが多かった。夜に話し出す二宮金次郎像、トイレの花子さん、お岩さん、夜に動く人体模型なども、スマホゲームに夢中だったりギャルファッションだったりと非常に現代的にアレンジされていた。舞台装置についてもトイレや人体模型、屋上の柵なども工夫されて作り込まれていた。

4人で学校の七不思議を探していくうちに、無いことになっている七つ目の不思議が明らかになっていく。4人のうちの一人が死んでいることを知らずに教室に紛れ込んでいたのである。意外なところからの急展開であり、非常に引き込まれるものがあった。二宮金次郎像の「死んでいたのはエリカだけじゃない」というようなセリフや、行ったら帰って来ることがないきさらぎ駅から瑠璃が帰って来たエピソードから、友達だったエリカを探すために戻ってきたという想像を掻き立てられた。風香と菖蒲だけの世界が演じられていたことも、無いことになっている世界の存在を強く印象づけられ恐怖をあおられた。二宮金次郎像の台座が最後のシーンで消えていたのは、七つ目の不思議が見つかり、七不思議が完成したことで二宮金次郎が縛られた場から解放されたからではないかと感じられた。

この作品は「自分の身近に潜む恐怖に立ち向かう覚悟」だったり「七不思議を探しに行く勇気」また、「変わらない友情」など視点を変えると伝わってくるものではないかと考えた。「一を切り捨てて百を救うのは、当然のこと。」という瑠璃のセリフから現実味が感じられた。「それでも私は覚えてる」というタイトルには「瑠璃がエリカがいたことを、存在が消えたとしてもずっと覚えている」という意味があるのではないだろうか。

石川県立工業高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


15 石川県立七金沢二水高等学校「Daily」

タイトルである「Daily」とは、まさしく「日常的」な女子高校生の学校生活の一部を切り取ったかのような世界観であった。放課後の教室、気の置けない友達とお菓子をつまみながら、とりとめもない、差し障りもない会話が続く。勉強のこと、先生のこと、恋愛のこと、仲間同士のいじりあい。観客も、このような一見無駄な時間のように見える楽しい時間にすぐに気持ちが入りこめた。高校生のリアルな生活の一場面が表現されていた。キャラクター一人一人の仕草や、教室でのふるまい方、お菓子のつまみ方や、いじりに対する反応などがとても自然でまるでエチュードを見ているかのように自然に見えた。「こぶたん」「シスタン」といった高校生独特の言葉が身内感覚を強くした。

永遠に続くかのような女子の友情にも、違和感を覚えるようなセリフがところどころにちりばめられていた。時折梨帆の口からでる「(昔に比べて)変わった」「ずっと一緒」という言葉に、仲良しをアピールする以上の束縛めいたものを感じる場面があった。教室から一人、二人と消え、梨帆と美奈だけになると、今までの楽し気な教室での女子の会話は一変してしまう。一見、明るくとりとめもない、差し障りのない関係を保つ下で、一人だけを独占したい、昔と変わらない関係のままいたい、というネガティブな気持ちを持ちながら人間関係を続けていく苦しさ。人間は、どこまでも明るく和やかに人間関係を保ち続けることの困難さが描かれているように感じた。普段は、誰にも悟られることがないがふとした瞬間にあふれ出て、人間関係が崩れてしまうような危うい関係。これもまた、高校生の「Daily」ではないかと考えさせられた。テーマは人間という生き物はネガティブな感情を抑えながら生きているのも、日常的なことなのではないかと感じた。

舞台装置は、どの学校にもありそうな教室の風景が再現されていた。教室内でのお菓子パーティーのお菓子たちの再現が非常にリアルで、本当に中にお菓子が入っているのではないかと感じられた。また、舞台脇から差す照明や、移動する雨音から、校舎外の様子をうかがうことができ、同時に時間経過も分かるという工夫がされていた。私たちもぜひ使いたい演出であると感じた。

石川県立金沢二水高等学校の皆さん、お疲れ様でした。


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